ま……待て、春崎! これ以上は……!
そうだ! 俺たちも限界だ!
何を言ってるのかしら……? まだまだ序の口じゃない。
少なくとも、あと一杯はいかせてもらおうかしら?
そう言って目の前の女は、笑みを浮かべながら口元についていた白いものを舌で拭い取る。
たったそれだけの動きなのに、妙に艶かしさを感じた。
く……くそ、こいつめ……!
耐えろ利秋……! 俺たちは許してもらう側なんだ……! それにあと一杯って言ってたしこれ以上は……
あ、店員さん! 『特盛』追加、お願いしますね!!
ヌギャァァァァァァ!?
ドンッ!
背中に痛みが走ったと思うと、目が即座に開く。窓の外から差す光で朝だと思うよりも先に、体中に汗が吹き出ていることに気づく。
……寝覚めとしては、最悪もいいところだな。
ケースからメガネを取り出しながら、そう呟く。原因はさっきの悪夢というか、昨日の出来事の走馬灯のようなもので間違いない。
運ばれてきた巨大なパフェには俺と雄斗の二人が圧倒されてしまった。そして値段の割高度合いにも圧倒されてしまった。
少なくとも、二度とあの店には行かない。そう決めるくらいには嫌な思い出が染みついてしまっていた。
まぁ、昨日は春崎がギリギリのところで温情を出してくれたからいいとしよう……
昨日の顛末を軽く語ると、俺と雄斗はどこぞのゾンビをも上回る追跡者ぶりを発揮した春崎の手から逃れることがかなわず、駅前の店まで結局連れて行かれてしまった。あれ以上下手に逃げて、機嫌を損ねるのも危ない道だったからそれには素直に従った。
そして春崎の食いっぷりを脳内で勘定計算をしながらぼんやりと眺めていると、やがてトンデモな額になることに俺と雄斗は気づいてしまったのだ。
そうして先ほどの悪夢に繋がる。春崎があの段階で特盛を頼んだときは首の皮を残す気も無いんじゃないかとすら思ったものだったが、最後の最後で俺たちをここまで連れてきた張本人様からお情けがあったのだ。
……そんな絶望的な顔しないでよ、仕方ないなぁ。まだ初日だし二人とも、今回はこれでチャラにしたげる。今日は三人で割り勘でいいよ。
その言葉を聞いたときは、本当に救われた実感がしたものだ。
……とにかく、春崎本人がなかったことにしてくれたんだし、今後は似たようなことは起こさないようにしておこう。うん、雄斗は治すか分からないけど。
バシャッ! と水で顔を洗う。
よし、目も覚めてきた。
朝飯でも作るか。
そう言えば、冷蔵庫には何が残っていたかな……。
………………
家に食うもんが無いとは思ってなかった……。
悪夢といい、やっぱり今日は最悪だ。しかも今は午前6時ちょうど。起きたのは5時半である。爺さんでもないのになぜこんな早起きをしなきゃならんのだ。
良いことといえば、こうしてコンビニに調達に出る時間があるということぐらいか。24時間営業のスーパーでもやっていればよかったが、近辺には無い。
とりあえず、確認したら米も切れそうだったしな……今日帰ったら一度スーパーに寄って……
あれ、双葉?
ぶつぶつ言いながら歩いていると、声をかけられた。それはかなり近い内に聞いたことのあるもので、ゆっくりとそちらに振り向くと頭に浮かべた人物が立っていた。
ん、夏目か……って。
……今6時だぞ、おい。なんで普通に知ってるやつが出歩いてるんだ。
なんで起きてるんだ、お前は。
朝だからって誰も出歩いてないわけじゃないわよ。むしろ私としては双葉が出歩いてるほうが驚きね。
あんた、どっちかというと怠け者みたいに見えるし。
夏目、お前……まぁいいや。今日は特別だよ、特別。ちょっと嫌なもんに起こされただけで普段は今頃も寝てるよ。
そう、嫌な夢でも見たの?
正解だ。何もやらんがな。
ケチねぇ。それなら今から何をしに行くのか聞いてもいい?
買い物だよ。今の我が家の食糧事情が粗食どころの問題じゃなくなってるからな。米とわずかな調味料だけしか無かったんだ。
あら、お米があるだけいいじゃない。私なんて仕方なくパン一枚な日もあるのよ?
……それは遅刻しそうだとか、そういう理由じゃなく?
正解よ、遅刻しそうな時しかしないわ。でも何もあげない。
ケチめ。とりあえず、俺はもう行くからな。
あ、待って、私も行く。今思い出したらまだ朝ごはん食べてなかったわ。
それなら外に出る前にパンでも食べておけば良かったんじゃないか……?
少なくとも、俺のように家に置く食材の不備が起こることは少ないように見えるが。
いや、一応食べてはきたんだけど……もうエネルギー使い切っちゃって。
あーはいはい、忘れたんなら忘れたって素直に言えよ。朝食を朝にとって朝に使い切るとか、どんな激しい運動だっての。
……それもそうね。
恥ずかしそうにしてなにとんでもない事を言ってるんだか。夏目本人もそれに気づいたらしい。
俺たちはそこでいったん会話を打ち切り、コンビニへと向かった。
ありがとやしたー
気の抜けたような店員の言葉を背後に、俺と夏目はビニール袋を手に店の外へ出る。
やはり24時間営業とはいえ早朝だ。店先にも人はいない。というわけで二人とも、空いたスペースでさっさと食事を摂ることにした。
双葉は何にしたの?
ん? あぁ、俺はパンだよ、パン。
見ろ、この袋にデカデカと書かれている「極上!」の文字を。羨ましいか?
……さすがの私も「極上! アルプス地方に脈々と伝わりし黒き真なるコッペパン」なんて怪しさ全開のものは羨めないわね。
……言うな、完全に俺が極上に釣られただけの馬鹿みたいになるから。
双葉、あんた本物の馬鹿じゃないの?
マジモンの罵倒をいただいてしまった。目が非常に冷たい。
すいません、反省してます……。
なので俺には頭を下げることしかできそうになかった。
まぁ、腹持ちは良さそうじゃない? あまりにあれだったら私の茶飯お握りとかあげるし。
いや、そういうわけにはいかないだろ。夏目が買ったものを恵んでもらうだなんて……
ん? ちゃんと二倍の値段もらうわよ、420円ね。
おい待て偽善もいいとこじゃないかそれ! しかも微妙に高いな茶飯!! 俺の黒コッペの4倍じゃないか!
そりゃあタダじゃああげないわよ、絶対にね。
笑顔でいうな、笑顔で。
夏目、お前さっき俺のことケチって言ってたが、お前のほうがよっぽどじゃないか?
半額で投売り同然だった黒パン二つと安いジャムを買ってきたあんたには言われたくないわね。
痛いところを疲れた。だってコッペパン単体じゃ家にある米単体となんら変わりはないだろう。
……しかしあれだな、朝から制服って確実に目立つよな。
こら、話題変えて逃げないでよ。
逃げてない。お前は目立つと思わないのか?
いや、そりゃあまあ思うけど……
よし、納得いかない表情をしてるがそのまま納得してくれ。というか今発言したことを意識すると早く家に戻りたくなってきた。
ほら、早く食べないと周りの目がどんどん集まるぞ? それは嫌だろ?
……分かった。今日は食い下がらないでおくか。
よし。安心して、俺はコッペパンの袋を破るとブルーベリージャムの瓶の蓋を開けて、そこに直接パンをつけ食べ始める。
……硬いなぁ、黒コッペパン。
…………
横の夏目はゆっくりとお握りを食べ進めていく。食べるものの柔らかさの差は歴然としていた。
……おみおつけが欲しいかも。
ボソリと夏目が呟く。多分不意に漏れた声なのだろうが、それだけに本心なことが窺える。
味噌汁が欲しいのか?
えぇ。まぁ、買い忘れちゃったからいいけどね。今から中に戻る気もないし。
そうか……しかし夏目って和食派なんだな。さっきは忙しいときはパンだけ食べてくとか言ってたが。
家は一家全員和食が好きだからね。多分洋食に一番理解があるのって私だと思うくらい。
へぇ、そうなのか。
……羨ましいよ。
え?
なんでもないよ。早く全部食べよう。
え、えぇ……?
夏目が不可解そうな顔をしながらも、食事を再開するのを見て、自分もパンの硬さとの戦いをもう一度始める。
――不意に漏れた言葉は、紛れもなく本心なのだろう。
そしてさっきの羨ましいという言葉は、確かに不意に漏れたものであった――