………………
勢いで校舎まで戻ってきてしまったな……
夏目と別れてから10分は経とうとしている。他に行き場もないので校舎内に戻ってきたのだが。
コラァー! 利秋、どこ行ったー!!
まだ探してるみたいだな、春崎。
階段近くで、下の階から聞こえる春崎の怒号。今見つかったらひどい目に遭いそうだ。
とはいえ、彼女が治まるまで逃げ回るには校舎内は狭い。このままいてもその内見つかるだろう。
どうしたものかね……
ふぅ、とため息をついてあたりを見回した。
目に入るのは、春崎の声が響いてきた階段。降りだけでなく、上の階へ行くものもある。
……行ってみるか?
かすかだが、希望があった。それに頼れるならば頼ってみよう。
そう思い、階段を上っていった。
…………
よし、開いてる!
最上階、頑丈そうな扉に鍵が閉まっていないことを確認して、表情が綻ぶのを実感する。
そう――俺が行こうとしているのは、屋上だった。
もしかしたら春崎はここを意識の外に置いているかもしれないし、ここまでやってこられたら逃げ場はないが、諦めてしまうのも手だ。
早い話、逃げるのがもう面倒になっただけだった。
ギィ、という音を立てて、扉を開ける。雲を浮かせた青い空が視界いっぱいに広がり、暖かな春の日差しが差し込んでくる。
開放感がある、と思った、矢先だった。
ん……?
扉から遠い位置に、誰か居るのが見えた。目を凝らす。
それはまた、知らない女生徒だった。柔らかい色合いのツインテールに、小柄な姿をしている。
小動物をイメージさせられるような彼女は、なにやら一人で口と体を動かしていて、どうやら俺には気づいていないようだった。
集中しているのだろうか。次第に、彼女が口に出している内容が聞こえてきた。
……わた…ね、あ…たが守ってくれたってこと、最初は知らなかった。
だから最初は……かなり冷たくしちゃったと思う。
…………
……でもね。傍にいてくれるあなたを見てると、なんだかホッとしちゃったの。
頼りがいがあって、わたしを大切にしてくれて……そんな姿を見てたら、本当はあなたが守ってくれたんだな、って。
知らなかったけど、そう思ったの。そしてそれは当たってた。
嬉しいよ。だって、あなたが守ってくれたんだもの。嬉しくて嬉しくて、胸の奥も温かい気持ちでいっぱい。
だから言わせてほしいの。今ここで……あなたに、全部。
ありがとう。そして――――
――――大す
目が合った。
時間が止まった。
…………
あ、顔を伏せてむこう向いた。
……どうしたもんか、この空気。
……見てた、今の?
あ、ああ……見てた。
う……やっぱり……
どうも、さらに落ち込んだ様子だ。よくわからんが、このままにはできないだろう。
あー、えーっと、その、迫真の演技……だったぞ?
……ありがたいけど、今はその言葉が逆に辛いよ……
そ、そうか……
まずい、何言えばいいんだろう、これ。
春のうららかな陽気はどこへやら、俺達の間には微妙な空気が漂っていた。
……もう、大丈夫。大丈夫、大丈夫……よし。
そう言って顔を上げた女の子だが、まだ少し顔が赤かった。平常心にはまだ程遠いだろう。
えと……さっきはごめんね、あんな恥ずかしいところ見せちゃって。
いや、俺も状況を察して出ていくことができなかったからな。悪いのはいきなり入ってきた俺のほうだよ。
そんなことないよ、えっと……き、きみは悪くないよ!
何言ってるんだ、悪いのは俺で……きみのほうこそ悪くないって。
…………
……お互い、まずは名前、聞こっか。
そうしよう。俺は双葉利秋。今年から2-Aだ。
双葉くんだね。わたしは冬樹沙羅(ふゆき さら)。今年は2-Cで、演劇部に入ってるの。
薄々そんな気はしていたが、やっぱり演劇部か。それなら納得だ。
要するに、さっきのニヤけそうになるセリフの数々は練習だったってことだ。
うん。今日は部室棟も使えないから、ここを少し使わせてもらってるの。
双葉くんも、部活か何かで用事?
いや、俺は帰宅部だから、部活ではないな。ちょっと寄ってみただけ、ってところだ。
そうなんだ。じゃあゆっくりしていきなよ、って言ってもわたしがここの責任者ってわけじゃないんだけどね。
いいのか? 俺がいても邪魔になるんじゃ……
大丈夫だよ。むしろもらえるならダメだしが欲しいかも。
いや、流石にイロハも知らないで経験者に何か言うのは……
それも気にしなくて平気。言われたことをどれだけ受け止めるかは、わたしの自由だもの。
双葉くんがいいことを言えば取り入れるし、余計なことを言えば聞かないよ。
……冬樹、それ多分ヌケヌケと言うような言葉じゃない。
まぁ、たしかに合ってるけどな。
臆面もなく言うのはどうかと思うが。
ま、とりあえず何かあれば言ってみるよ。
うん。あ、ところで双葉くん、帰宅部だって言ったよね?
あぁ。
もしよかったら、演劇部に入ってみるのはどうかな? きっと歓迎するよ、先輩たちも。
時間があったら考えとく。だがあまり期待しないでくれると助かる。
ん、残念。
それじゃ、わたしは練習始めるね。
じゃあ、俺も見物させてもらうよ。
これ以上やることもない俺は、屋上の床に座り、冬樹の練習を見させてもらうことにした。たまには、こういう日があってもいいだろう。
きわめて日常的ではない体験に、心はにわかに喜んでいた。
………………
おい、ちょっとその台本貸せ。
え、なに?
喜びの心はどこへやら、酷い疑問が今は頭の中を渦巻いていた。
原因は、先ほどから冬樹が握っている台本にある。
というか、台本の中身――セリフに気になる点しかなかった。
いや、ちょっとな。乱暴には扱わないから、その台本少し読ませてくれないか?
……わかった。はい。
冬樹から丸まった台本を受け取り、ページをめくる。
パラパラ
パラパラ
パラパラ
…………
この台本を書いたのは誰だぁ!
え? 部長が特別にってわたしにくれたものだけど……どうかしたの?
どうしたもこうしたも、なんでこう全部特殊な告白シチュエーションみたいなもんなんだよ!? 最初に聞いたのだけかと思ったら全部とか考えてなかったわ!
その部長って野郎、欲望を全開にしすぎなんじゃないか!?
いや、藍理部長は女の先輩だよ?
なおのことわけがわからんわ! というか、冬樹は疑問を持たなかったのか!?
確かに最初は恥ずかしかったけど……い、今みたいに最高でも2人か3人しかいないならなんとかできるようになったよ!
……いや、劇で少人数ならできるってそれはダメな方向なんじゃ。
う……でも、これはちょっと……
……まぁ、これはなぁ。すまん、さっきのは取り消しで。
ありがと。でも普通の劇なら特に気負わずできるようになったのは多分これのおかげだからね。もう少し割り切れるようにならなきゃ。
なるほど、そういう見方もあるのか。だが……
だが?
……正直、一人で聞いてるのは恥ずかしい。
そうなのだ。それが大問題だった。自意識過剰といわれそうだが、なんだか冬樹の言葉が自分に向けられてるような気分になってしまってしょうがない。
そこまでは、流石に言えなかったが。
? そうなの?
幸いにも、冬樹は気づいてないらしい。鈍い気もするが、気づかれたら俺がいたたまれなさすぎる。
ああ。とりあえず、これ以上は聞いているのも辛い。
……そう、なんだ。
俺の言葉に冬樹は目に見えて落ち込んでいた。その時、俺は言葉が足りなかったことに気づく。
その、冬樹、お前の演技が悪かったわけじゃない。ただ台本に書かれていた台詞が、ちょっと苦手だっただけなんだ。
……ありがとね、双葉くん。
冬樹の気分が少しだけ取り戻せたように見える。だが、俺の言いたいことはこれだけじゃない。
それに、これ以上はって言っても「今日」だけだ。明日以降に次があればまだいけるさ。
次、って……双葉くん、まだわたしの練習見てくれるの?
あぁ。辛いとかも言ったが、結構楽しかったんだぞ?
これは正直な気持ちだ。冬樹が魂を込めてなりきり、その精度をどんどん高めていくことに、僅かながら俺も助言をして手伝う。
それがただ、楽しかった。だからまた来たいと思えたのだ。
……じゃあ、今日はこれで、ね。今度もよろしく、双葉くん。
ああ!
端に置かれていた荷物を手に取り、冬樹は小走りでここを出ていった。
次、か……楽しみだな。
一人空の下、そうつぶやきながら俺も荷物をまとめる。今日はここにもう用はない。
ゆっくりとした足取りで、俺はこの場を後にした。
お、よう利秋! 無事か!?
あ、雄斗じゃないか。お前こそ、大丈夫か?
下駄箱を出た先で雄斗に出会った。
ここにいるということはまだ無事ということだろう。それを察し、俺は雄斗の返答を待たずに互いの健闘を称えようと近づく。
手を合わせるのが容易な距離にまで近づく――
――今だ!
なっ……!?
ガシィッ!と力強く体を押さえつけられた。身動きが取れない。
ここで俺は、ようやく本当のことに気づく。
雄斗……お前もう……
……すまん利秋。一人で奢るより割り勘のほうが俺の負担が下がるんだ……許せ……!
チラリ、と雄斗が顔をある方向に向けた。俺も釣られてそちらを見ると、ニッコリ笑顔の春崎がそこにはいた。
……もうこれは無理だな、という諦めが思考を塗りたくる。
学校のある開かれてる窓からはその思考には似合わない、軽快なギターサウンドが鳴り響いているのだった――