この時期になると、思いだす。
僕とあいつが出逢った、あの夏の日のこと───
幼い頃から、毎年夏にはお婆ちゃんの家に遊びに行っていた。
お婆ちゃん家は、それはそれは山奥の田舎村で、コンビニとかゲーセンとか、 今の若者が遊べる娯楽というものがまったくと言って良いほど、皆無だった。
けれども、その頃の僕にとっては、この見渡す限りの大自然こそが、何よりもの娯楽であり、時に先生であり、時に母でもあった。
そんなマルチプレイヤーな自然から取れる野菜は、格別に美味しい。生でも全然いける。
そして、あの日も、カゴいっぱいに詰め込んだ野菜たちを小さな背中の上で揺らしながら、畑から家まで続く道を歩いていた。
道中の見慣れない草花や虫達に最初は新鮮さを感じていたが、通い慣れるにつれて、彼らをまるで友達のように接する術を会得した。
外界から切り離された世界。時間に制約されない空間。
何もかもが子供だった僕は、それがいつまでも当たり前に受容できるものだと信じ、疑いの余地すらなかった。
さて、そんな何にも縛られない悠々自適ライフにも、いくつかのルールがあった。
①外から帰ってきたら、必ず手洗いうがいをすること。
②子供だけで火遊びをしないこと。
そして、3つ目は、 「沼には絶対に近付かないこと。」
沼というのは、村のはずれにある小さな水源のことである。
上流の川と繋がっていて、そこそこ水も澄んでいて、あまり沼という印象は湧かないかもしれない。
でも、地元の人はそこを「沼」と称し、子供たちを決して近付けさせないようにしているという。
何でもその昔、沼の周りで遊んでいた子供が、忽然と行方をくらますという神隠し的な事件が立て続けにあったそうだ。
噂によると、夜な夜な沼の底から何かが這い出てくると云う。
「ぺた・・・ぺた・・・」という、水気を含んだ足音を、夜回りをしていた警らの人が沼の方から聞こえたと興奮しながら話していたらしい。
僕はその沼に非常に興味を持った。
しかし、人一倍怖がりな僕は、単身一人で沼に行くことなんてできなかった。
そんなジレンマに駆られている最中、1人の子と出逢った。
名前はほたる。
野菜を運んでいた道中で、偶然出くわしたのが最初だった。
年も背格好も近かった僕らは、たちまち仲良しになった。
彼は僕を地元の人も知らない穴場という穴場に連れて行ってくれた。彼はこの大自然の先駆者だった。
そんな彼はたいへんな汗っかきで、いつも着ていた服も肌もびっしょりと濡れていた。
そして、知り合ってから何日かした時、彼はこう口にした。
──ぼくの家に、遊びにおいでよ。
彼はこの村の出身らしいが、どこに住んでいるかは知らなかった。
僕が村の中をふらふら歩いていると、急に姿を現せる、神出鬼没な子だった。
正直、彼がどんな場所で、どんな家に住んでいるのか気になっていたし、僕は迷わず首を縦に振ったのだった。
彼を先導に案内されて、生い茂る草林を掻き分け、ついていった先に待ち受けていたものは。
そう。ここは、大人たちがけっして近付いてはいけないと口喧しく言っていた、あの沼だ。
僕はそれに気付いた瞬間、俄然歩みを止めた。
僕は恐る恐る彼に訊ねた。
──キミの家って、この沼の近くにあるの?
すると、彼はにこにこしながら言った。
───ぼくの家は、川の向こう側にあるんだ。
彼は僕の手を取ると、どんどん先へと進んでいく。
僕は黙ったまま、彼に従って歩く。
やがて、僕らは水際まで辿りついた。
そして、彼は僕の手を取ったまま、沼の中へと足を浸していく。
それまで穏やかだった水面に、僕ら2人分の侵入を報せるかのように、波紋が拡がっていった。
──冷たくて、気持ちいいでしょ?
彼はそう問うた。僕はうん、と素直に応えた。
内心、真夏の刺さる様な日差しの熱さと、足元から伝わる柔らかな水の冷たさのギャップを楽しんでいるような余裕は、この時なかった。
──ちょ、ちょっと待ってよ!
水かさが腰まで達しかけた頃、さすがに僕は声を荒げて抵抗した。
───こっちのほうが近道なんだ。
───なに、僕はこう見えて泳ぎには自信があってね。
───仮にキミが泳げなくても、気付いたらもう僕の家についているから、安心して。
振り返ると、岸辺が随分遠くにあるように感じた。
前に進むにつれ、今まで僕がいた世界から、どんどん離れていくような、そんな不安と心細さを感じた。
そんな中、村の大人たちの言葉を思い出した。
───沼には、けっして近付いてはならない。
───夜な夜な、沼から何かが這い上がってきて、子供たちを攫っていくんだと。
僕は、彼の手を振り払った。
───ぼく、もう帰るよ。
勇気をふりしぼって、ようやく出た言葉。
すると彼は驚いた表情をして、こちらを凝視していた。
───どうして?
彼の詰問に、僕は答えられなかった。
ただただ、早くこの場から抜け出したい、ただその一心だった。
僕は、彼の顔を見るのが怖くなって、振り返り、無我夢中で来た道を折り返した。
ざぶ、ざぶ、と水を掻き分けて、岸辺を目指した。
後ろから、彼の声がする。
───待って、行かないで。
彼が追いかけてくる。急いで陸に上がらなきゃ。
どうして、こんなところに来てしまったんだろう。
素直に大人たちの言うことを聞いていれば、こんな怖い思いをしなくて済んだのに。
足がもつれ、バランスを崩した僕の身体は、水の中に沈んだ。
パニックに陥った僕は、絶えず形を変える水に対し、のれんに腕押しと云わんばかりに抵抗を繰り返した。
そして、次第に意識はなくなっていき───
目を覚ますと、僕はお婆ちゃん家の座敷の上にいた。
どうやら、僕が沼の岸辺で横たわっているのを、村の人が見つけてくれたらしい。
沼に遊びに行ったことを、両親や、特にお婆ちゃんにこってり叱られた。
夏休みが終わりに差し掛かり、僕が村を去るその日まで、二度と彼と逢うことはなかった。
季節は巡り、また暑い夏がやってきた。
あの腕白だった野性児も、今となっては、その面影すらなくすっかり痩せこけて、
今はこうして、病床の上で、残り少ない時間の流れを感じている。
思えば、ありふれた人生だったと思う。けれども、後悔はしていない。
1つ心残りがあるが、これはきっともう叶わないだろう。
これは後で聞いた話なのだが、ほたるの家は、あの沼の周りに本当にあったらしい。
田舎の村には似つかない、洋風の屋敷のような家だったという。
屋敷を立てる際に邪魔になった、その沼に隣接する祠を、村の人に黙って少し動かしてしまったという。
その事が、村の古株の逆鱗に触れ、以来村八分のような扱いを日々受けていたという。
ほたるは、村の子供から石を投げつけられたり、大人達には無視されたり陰口を叩かれたりしていたようだ。
僕らが初めて出逢ったあの日。
きっと、彼も勇気を振り絞って、僕に声を掛けたに違いない。 僕に嫌われないように、懸命に気を使いながら。
あの年以来、僕はあの村に遊びに行くことは無くなった。
だから、ほたるが現在も、あの村に住んでいるのかは分からない。
彼は今でも、あの川の向こうで、僕が遊びに来るのを待っていてくれるのだろうか?
なんて言うのは、僕の押しつけがましい勝手な願望だ。
けれど、あの時、キミの手を振り払った僕を許してくれると言うのなら、
また一緒に遊ぼう。